喜谷六花

喜谷六花(きたに りっか)

本名・喜谷良哉
1877年(明治10年)7月12日 – 1968年(昭和43年)12月20日

中村楽天主宰の「二六吟社」同人となり、定型俳句を作って「ホトトギス」「日本俳句」に投稿していた。
その後、新傾向俳句に惹かれ1901年河東碧梧桐門下となった。
碧梧桐門下として、大須賀乙字小沢碧童と併せて「碧門三羽カラス」と称された。
碧梧桐との縁で「海紅」発足と同時に同人となり、次いで「三昧」同人になる。
しかし、「三昧」の風間直得らの主唱するルビ俳句に異論があり、三昧を去り、当時、主宰が中塚一碧楼に移っていた海紅に戻る。
一碧楼亡きあとは、海紅の選者となった。
句集に「寒烟」、「梅林句屑」「虚白」がある。
また、瀧井孝作と「碧梧桐句集」を編纂している。

代表句

・畳に河鹿をはなしほうほうと言ふて君ら
・鮟鱇の煮え隣の男の肘がさはる
・子ら迎へ火おもしろく彼の家この家

略歴

東京都の浅草区(現在の台東区)にて出生。
16歳の時に僧侶(曹洞宗)となる。
曹洞宗高等学林(現、駒澤大)、哲学館(現、東洋大)で学び、20歳の頃、台東区三輪町にある華嶽山梅林寺住職となる。
六花が住職をしていたことで、梅林寺は碧派の句会の会場としても利用された。
また書においても六朝風の書家として知られた。
28世慈門良哉大和尚、曹洞宗権大教師。

参考文献